豚暦

豚に足跡なく月日あるのみ

母校への悪口と総括

今から母校たる大学への悪口を言います。ルサンチマンヘイトスピーチです。

 

一応、「名門私大」を自称しているらしい。

額面の偏差値はそこそこあるように見えても、学生の中身はさまざまである。

よくある入試方法別に分けると、こんな感じだ。

 

まずは一般入試組。これが二つに分かれる。

一つは、志望校に落ちてきた人。要は学力が足りなかったか、自分の学力を過信したバカである。

もう一つは、志望してきた人。性格と想像力に難がある人っぽく言えば、数学のできないバカである。

この二種類のバカは、他の入試方法で入ってきた馬鹿をバカにしがちである。馬鹿だから仕方ない。なお、私もこの部類だ。馬鹿なので許してほしい。

 

次に、よくわからない入試方法組。制度をよくわかっていないが、AOとか指定校とかなんとか推薦とかいうあれである。高校で習い入試で用いる通常の知識を有しないバカである。

 

そして、内部進学組。高等部から上がってきた人と、系列校から上がってきた人がいる。

前者は通称ナイバー。中等部からの者(ディープナイバー)と、高等部からの者がいる。たぶんディープの人の方が多い印象。彼らは幼少期にガッツリ勉強し、内部校では独特のカリキュラムで学んできた者たちだ。一般入試組が当然のものとして身につけている高校科目の基本的な量産型知識の定着は怪しい反面、謎の知識やスペックを持つ者などがいて個性豊かである。文化資本のある家の者も多い。必ずしも軽々しくバカ扱いはできない一方、留年率は高い印象がある。

系列校出身者は、人物見識ともにナイバーよりもレベルが低い傾向にある。こっちは軽々しくバカといっても差し支えないだろう。

 

「入試方法で差別するのはクソ」というのは、耳に胼胝ができるほど聞く話だ。それは当然で圧倒的に正しい。しかし、実際にバカが多いのだから仕方ない。見識で馬鹿にした奴に、たまたま入試方法の偏りがあったというだけである。逆ではない。(もちろん馬鹿でも、いい奴はたくさんいる。それを否定する程偏狭ではない)

 

さて、そのバカの実態である。

私が馬鹿呼ばわりできるのは、私が知っている範囲内である。今回の場合、具体的には○○史ゼミだ。大学全体を「F乱」呼ばわりするのは憚られる(立派な教員も、入試方法問わず立派な学生もいるので)が、自分の見た範囲内であれば、文句はあるまい。

 

 

このゼミは20人程度の大所帯である。輪番で各々の卒論に関連するテーマを発表する。

この発表は、馬鹿がやると、レジュメの日本語がそもそも日本語になっていなかったり、「お前意味わからずに難しい言葉を使っているだろ」という場合が多い。聞くにも堪えぬクソ発表を聞いていると、このゼミに入ったことに後悔し、何のために勉強して大学に入ったんだろう、と虚無モードになってくる。

ところが、教員はクソ発表にあまり突っ込まない。基本的ににこやかである。

人徳があるのはいいことだ。女子学生には慕われている。研究室に泣きにくるという女子もいるとか。

が、指導する気はあまりなさそうだ(研究室に指導を乞いに行った人には指導するであろうが)

たちが悪いのは、思いついたときに、たまに「指導」をすることだ。基本的にターゲットになるのはバカな男子学生だ。先生の虫の居所が悪い時は、そのクソな発表のクソさを容赦なく指摘する。それ自体は悪いことではないが、学生の性別や気分によってやったりやらなかったりというのはどうなのかと思う。

 

ゼミ生が全員馬鹿と言う訳ではない。そこそこ頭がいいのもいる。

が、こんなゼミである。頭がいい奴は、要領よく発表を切り抜けるだけで終わる。聞くに堪える発表はクソ発表に比べると清涼剤にはなるが、それ以上にはならない。

 

このクソゼミのクソ発表を聞くのは苦痛で、私は最初の2,3回で早くもゼミが嫌になった。羽化したセミがすぐに死ぬように、数週間でゼミへのモチベも死んだ。真面目に発言する気もなくなった(ここで発言しまくって無双し、ゼミを修羅の道に叩き込めば、こんなところで愚痴を書く必要もなかったのだが)。自然、教員へのヘイトも募る。指導を受けに行く気にもならない(これもまた失敗なのだ。優等生風に正論を言えば、大学は「教えられるところ」ではなく「学びに行くところ」だからである)。幸か不幸か、相対的に頭がいいことになる私は、適当にやってもゼミ発表は切り抜けられるから、適当にやって終わらせた。クソ学生である。

 

かかるゼミで○○史への興味も消え果て(むしろやりたくなくなった)、他学部の授業、サークルでやっている社○学、専門分野外の文献の乱読で、○○史から遠く離れることに快感を覚えるようになっていた。やはりクソ学生である。

 

そんなことをやっていても、卒論は書かねばならない。

 

ゼミに入った時にある程度定めた時代・地域の文献や史料を読み進めて、半期に一度の発表を適当にやった。が、4年生の前期が終わると、突然、やる気(もとからないのだが)がなくなった。こんなテーマ、やめじゃ、行き詰まったし、面白くないし。特に教員に指導を受けたわけではないので、教員に断りもなしに投げ出した。

 

ちょうど夏休み前、サークルの後輩に貸与していた古典が返却された。たまたま、このころ気になっていた学者の愛読書がその古典だったこともあり、夏休み中に唐突に思いついた。

あ、これで卒論書こう、と。

 

夏休みが明けて文献を集めて読み進めていき、10月ごろのゼミの発表で、さも当然のように、時代も内容もガラっと変わった発表を適当に行った。特に教員からもゼミ生からも突っ込みがなく、水を打ったような無関心に包まれながら、発表を終えた。

 

後は適当に書くだけだ。

 

んで適当に書いた。この文章みたいに。(なお、この文章は本当に適当に書いている。悪文を批判するのはやめてほしい)

 

んで出した。そして口頭試問である。

ゼミの教員と、他の教員Aの二人体制である。

Aは言った。「君、読書が好きかね?」

何のこっちゃと思ったが、所以は分からなくもない。参考文献に政治学の本が入っていたり、注釈で「M.○ェー○ーの顰に倣い~」などというふざけた文章を書いていたりと、史学的な実証はする気がないのに引き出しだけは無駄に豊富だからだ。

そして何やかんやの問答が終わりに差し掛かると、ゼミの教員は言った。「読書量と文才で書いた卒論だね」。たぶんあってる。ろくに実証的なことはやってないが、無駄知識とレトリックで論をくみ上げているクソ卒論なのだから。だが少なくとも、読める日本語で文章を書いてるだけでも、他のバカどものクソクソ卒論にはコーナーで差をつけている。彼らから留年生の山を出さない限り、私が卒業できないことはまずないだろう。

(後にある人から聞いた話では、別の大学の面識のない先生が、私の卒論と本名を把握していたらしい。訳がわからない)

 

みんな単位は足りているし、たぶん就職も決まっているのだから、留年を出して恨みを買いたくもないであろう。もう一年指導するのも面倒だろうし。

ゼミ生全員、めでたく卒業である。

 バカもウルトラバカも、等しく学士(笑)、じゃなくて学士(文学)になったのだ。

 

【おわりに】

ここでヘイトスピーチは終わろうと思う。

なぜこんなバカなものを書いたかと言うと、以前「お前は卒論を書いているから根性がある。嫌いな教員の研究室で卒論に向き合って鍛え上げられた根性である」という風に褒められたものの、残念ながら事実に反すると思ったからだ。教員の研究室には一度しか訪れていない(しかも女の子の付き添いとして)し、書いたものも適当極まるもので、根性のこの字も発揮していなければ、鍛えもしていない。そんな豚チックな話を祖述するにあたって、せっかくなので母校への負の感情も放出しておこうと思い、このクソ文章を書いた。

見ての通り、これは「馬鹿」「バカ」(表記を統一するのもばかばかしいので、漢字変換で出てくるままに任せた)を連呼する、偏狭な文章である。お前友達いないだろ、とか言わないでほしいが、必ずしも多くはなかったのは事実だ。「馬鹿だけどいい奴」ともっと仲良くしつつ、学問上でいじめ倒す、くらいの方が有益な学生時代を送れたであろう。

……と、適当な文章で反省会を開いても仕方あるまい。偏狭な文章は、偏狭なままで終わるべきだ。ばーか♡ばーか♡

だが、最後に大学の名誉のために言っておこう。

大学のトイレはめちゃくちゃきれいである。学生に最高の排便環境を提供してくれたことには、どれだけ感謝してもしきれない。

(ある戦犯曰く、「愚痴は曇る、感謝は晴れる」)