豚暦

豚に足跡なく月日あるのみ

歴史修正主義という言葉の無意味さについて

歴史修正主義なる言葉がある。

 

そのヨーロッパ本場での意味について知りたければ中公新書でも読んでくれ。

 

さて、日本の場合、この言葉は、大東亜戦争を東亜解放戦争として肯定したり、南京虐殺事件などの日本軍の残虐行為の存在を否定したり、近代日本を批判的に見る歴史観を「自虐史観」として否定したりする歴史観の総称として使われている。

 

その言葉を向けられる批判対象者が批判を蒙るべきであるという主張には諾うとしても、それを批判する際に「歴史修正主義」という言葉を使うのはあまり有効とは思えない。

 

歴史修正主義」の側は、自らが歴史に疎いとも思っていなければ、自らが歴史を修正しているとも思っていない。

 妥当性は措くにしても、彼らは歴史に関心のない一般人よりも、近代史の知識はある。大東亜戦争を「東亜解放」として肯定するだけあって、東南アジア独立運動の「志士」たちにも通じていれば、日本における大アジア主義の「志士」や運動に対する知識も豊富な場合が多い。満州事変から日米開戦に至る政治史にもある程度は通じているであろう。

 また、彼らの主張は、だいたい「史料に沿って見れば、南京虐殺事件はなかったのは明らか。あったというのは反日勢力の捏造で、それこそが歴史修正である」といったもので、主観的には「修正」された「歴史」=「自虐史観」と戦っているのである。

 それらを踏まえると、「歴史修正主義」者は歴史に無知だとか、歴史を修正=偽造しているとか批判しても、彼らにはノーダメージなのである。「あちら側」が「歴史修正主義!」と罵られたところで、「お前ら自虐史観こそが真実の歴史を修正する歴史修正主義だバーカ!」と罵り返すのがオチだ。小学生の喧嘩である。

 

歴史修正主義」という言葉を使う目的が、それを批判する側が「あいつらって馬鹿だよね」と団結することであったり、「あいつら」を指す便利な言葉(「ネトウヨ」よりもアカデミックな香りがする)を作ることにあるのであれば、それは有効であろう。しかし、「歴史修正主義」の蔓延を防ぐことにあるのであれば、「歴史修正主義」という言葉を使って対象者を批判することに何のメリットもない。なぜなら、その言葉は「歴史修正主義者」に全く刺さらない(むしろ、「お前らが歴史修正主義だ」と気炎を上げさせる)からである。

 

歴史修正主義」と戦うとすれば、その説得力を棄損させ、「歴史修正主義」的な言説に妥当性を感じている人たちを引き離すことが先決である。「ネトウヨ本」を量産するコアなイデオローグを「改宗」させることは困難である(その必要はないと言ってもよい)にしても、その説明に魅力を感じている人たちを引き離すことに注力することは可能である。

 「歴史修正主義」に「騙される人」は「馬鹿」だ、という説明はよく聞く。が、その前提に立つ限り、「馬鹿につける薬はない」と説得を諦めるより他はない。思うに、そういった人たちは、「(知的)好奇心」があるかないかで言えば、「ある」方であろう。そうでなければ、わざわざ「ネトウヨ本」を読んだり「ネトウヨ動画」を見たりして「歴史を勉強」したりはしないし、それを「面白い」と思うこともない。また、若くて知的好奇心旺盛なキッズが歴史の勉強をしようとして手に取った「面白い歴史の本」がたまたま「ネトウヨ本」だったりすることも、往々にしてあるであろう(よほど早熟なガキか文化資本ある家のボンボンでない限り、たいていの中高生は多少成績がよくても、大学の先生が想定するほど「本の良し悪しがわかる」ことはないと思った方がよい)。

 そういった好奇心のある人たちを「歴史修正主義」から引き離すには、彼らを「歴史修正主義者」と呼んで馬鹿にするよりも、個別の論点から、その歴史観の説得力を喪失させる方が確実である。「歴史修正主義」という言葉を使って彼らを全否定するよりも、「大東亜戦争肯定論」「南京虐殺否定論」「日本軍の残虐行為否定論」などそれぞれにターゲットを絞って、具体的に、粘り強くやっていくしかない。

 

今回は、「歴史修正主義」という言葉を使って相手を批判することが、「歴史修正主義」側の人々を説得する上では無意味であることだけを示して終わりにしたい。

 

具体的な戦略?は、気が向いたら書くであろう。