豚暦

豚に足跡なく月日あるのみ

人文書が引き起こす残酷な結末…会社が経営破綻してしまった理由とは? #経営破綻

 自己啓発書だらけの会社図書館に人文書を押し付けた話を、以前書いた。

会社に人文書を押し付けるという嫌がらせ - 豚暦 (hatenablog.com)

 では、その後、その会社はどうなったでしょう?

 自社WEBサービスを展開する部門の人が東浩紀を読んで着想を得て新たなサービスを展開したり、経営陣が玉木俊明のグロヒスを読んで経営の視野を広げたりすることは、当然、なかった。

 書物の寄贈後、1年も経たないうちに、会社は経営破綻した。マジの話である。

 「人文知」は経営の役に立たなかったらしい。

 経営破綻とは具体的にどういうことが、まで書くと特定されかねないので詳述はしないが、多くの従業員が職を失う羽目になったのは確かである。

 ここ数年で驚くべきホワイト企業化が進み、正社員は「こんなに給料もらっていいの?」などと贅沢な疑問を抱き、派遣社員は「俺の仕事が早すぎるのか業務が楽すぎるのかは知らんが、時間が余りすぎる」とて自称「社内ニート」を満喫したりしていた帝国が、あっけなく崩壊したのである。退勢が見えつつも盤石の支配に見えた武田勝頼分国の滅亡もかくやと思われる、あっけない終焉であった(厳密には終わっていないが)。

 

 今回は、会社の経営破綻が宣告された日の情景を簡単に書いていきたい。(もちろん企業秘密は書かない。ぼかすところはぼかす)

 

 いつも通りのある日のこと。上は突然立ち上がらずに言った。「○時から全従業員向けの重大説明会がTeams上で開かれます。全従業員は皆謹んで聞くように」

 経営がちょっとヤバめなことは皆知っている(ググると出てくる、「経営がやばい企業はこういう措置を取りましょう」の3ヶ条の方策も、全て会社は取ってきている)。

 「経営ちょっと厳しいです」という説明会もこれまで幾度か開かれてきた。まぁ、今回もそれやろ。という気持ちで、多くの従業員がTeamsの会議参加ボタンを押したはずだ。そして、経営破綻を告げられた。そして、その日の午後からの業務は停止するようにとの命令が出た(おそらく、経営破綻の処理に関係する部署の人は馬車馬のように働かされたはずだが)。

 業務停止令が出た後、従業員は思い思いの時間を過ごしていた。転職サイトを閲覧する者もあれば、同僚と雑談をする者もある。他の部署などに出かけて、会う機会が少なくなっていた旧知に会いに行く者もある。時間が潤沢にあり、相手も暇だと分かっているので、普段はあまり話す機会のなかった人と話す機会にも恵まれる。やはり旧交を温めている者が多かった。私もこの日は多くの人と歓談し、机の中の糖分接種用のお菓子を配ったりしていた。

 この会社では勤務時間中の喫煙は禁止されているのだが、「業務停止命令が出ているのだから、勤務時間ではない」という理屈で喫煙所に繰り出す猛者も現れた。自席の近くの電話の線を引っこ抜き、しれっと幹部社員の席に繋ぎなおすような、抜け目ない智恵者もある。

 大混乱は起こらなかったし、泣き叫ぶものもいない。敗戦時の帝国陸海軍のようなモラルハザードも起こらない。起こったモラルハザードらしきものは前述の無断喫煙くらいである(目的を失ったゲゼルシャフトの光景は、なんとなく降伏後の帝国陸海軍だなーなんて思ったが)。

 とにかく、皆、明るかった。「これからどうしよう」という気持ちと、「遂にこの時が来た」という気持ちの間で、皆、ハイになっていたのだろう。

 

 特に落ちがなくて申し訳ないが、ざっとこんな感じである……と書いたところで、オチを入れよう。

 はてなブログには、内容を読みこんでAIでタイトル案を出す機能が実装されている。試しにそれを使った結果、このようなタイトル案が出てきた。

 

破綻する会社: 人文書押し付けの結果は?

ビジネス衰退の陰謀: 人文書押し付けの効果

変革の種: 人文書押し付けがもたらした衝撃

 

検索エンジン向けタイトル

経営破綻後の会社に人文書押し付けの結果は?

会社の破綻と人文書押し付けの背後にある真実

人文書押し付けの影響で経営破綻した会社

 

SNS向けタイトル

経営破綻!会社に人文書を押し付けた結果、社員逃亡…何が起こったのか? #経営破綻

人文書が引き起こす残酷な結末…会社が経営破綻してしまった理由とは? #経営破綻

驚愕の結末!会社図書館で起きた人文書押し付け事件の後、会社は経営破綻した…その衝撃の理由とは? #経営破綻

 

……嘘つくなや。誰もそんなこと書いてねぇよ。アホか、と思ったが、アホなAIの助けを借りて、空虚で無内容な記事にオチを入れることができたのは、ほかならぬ私である。曲がりなりにも、人文・社会科学の書を平均的日本人よりは多く読んできた人間がやることがそれである。やはり、会社経営に限らず、「人文知」は無力なのだ(大嘘)

社会科が得意なのに反社なんですか?

 何の因果か、私は十有一にして歴史オタクの道(腐れ外道)に足を踏み入れた。それまではどちらかというと理系科目の方が好きだったのに。そして何より、小6になるまで、社会は苦手科目だったのに。

 私は天才なので、苦手科目といってもテストの点は勉強しないでも取れる。ただただ、興味がなかった。「日本のどこにどんな産業があるのでしょう?」んなこと知って、何が楽しいと言うのか。「愛知県では自動車産業が盛んです」とか言われても「だから、何?」だし、「社会にはいろんな仕事で働いている人がいます」とか言われても「あ、ご苦労様です」としか思わない。そんな「社会」のことよりも、次巻のポケスペポケモンの漫画)の展開の方がはるかに気になるし、放課後マリオカートでの友達との勝敗の方が重要である。

 また、実生活の面でも、「社会」との関わりは少なめであった。両親がよそ者で、祭りに関心を持たなかったこともあり、地域の祭りにはほぼ参加せず、「地域社会との交流」はほぼ経験していない。せいぜいゴミ出しですれ違ったご近所さんに挨拶をしたり、近所の悪童と一輪車で暴走するくらいが「地域社会との交流」であった。

 というわけで、知識としても、生活体験としても、「社会」には何の興味も関心もなかった。社会(科)への無関心は母上の知るところでもあり、「6年生になったら歴史が始まる。社会が嫌い(!)なうちの子の成績が下がるのでは」などと心配されていた。そしてその心配を鮮やかに裏切った。

 にしても、なぜ「反社会」の私が「社会科」の歴史の何に惹かれたのであろうか。謎である。その謎を解明すべく、色々と思い出してアマゾンの奥地に旅立っていきたい。

 

 歴史は最初の縄文時代の授業からして面白かったが、それは「社会」というよりも「理科」に近い関心の持ち方だったと思う。縄文時代ホモサピエンスの生活は、「社会で生活を営む人間」としてではなく、「群れを作る生物の生存」として私の関心を引いたように思う。一番の関心事は「縄文人はどうやってイルカを狩ったのか」だったし、人間の歴史ではなく生物の生態として興味を持っていたのではないか。(余談ながら、現在の私も「先史時代」は歴史ではないと考えている)

 時代順で言えば、その次に印象に残っているのは聖徳太子である。そのころに聖徳太子学習漫画を読んだこともあって、漠然と聖徳太子が好きになった(今もそこそこ好き。これが俗に言う「太子信仰」というやつである適当)。にしても、冷静に考えれば、聖徳太子の何が面白いと言うのか。「日本社会に仏教を受容・定着させる端緒を開いた」「遣隋使を送って、大陸の進んだ文物を日本社会に持ち込んだ」ことが、反社会の私の心に響こうか? わからん。顔が好き、法隆寺を立てた、冠位十二階とか憲法を作って賢い……それがそんなにガキの心を引くのであろうか。わからん。

 武士が登場すると、もう少し分かりやすくなろうか。初見プレイで源平合戦の話を聞くと、殺されかけた敗者の頼朝が逆転勝利で平家を滅ぼすのはすごく面白いし、義経の天才的な作戦(授業で先生が見てきたように語った)はキッズの血液と贅肉を沸騰させた。この辺になると、物語として歴史を楽しんだり、英雄崇拝で歴史を消費していた、という分かりやすい話になるのかもしれん(ちょっと学問を齧った歴史オタクが一番馬鹿にしそうなやつ)が、どうなんだろうか。わからん。

 

 書いていて飽きてきたので、今日はこの辺で終わる。

「社会に関心がない」のに社会科の歴史に興味を持ったガキ。そこで知った歴史なるものは、政治や産業、経済生活、社会生活などの「社会」と密接なものである。結局、嫌いな「社会」に帰ってくる羽目になる。一方で、歴史に空想を馳せたガキは、これまた歴史の中の空想である思想や文学(「歴史」もその一つ!)などといったものを知るであろう。それらの空想の世界もまた、結局「社会」の産物であったり、「社会」に影響を与えたりするものであり、これまた「社会」に帰ってくる。これらは、反社の歴史オタクの自家撞着というべきものである。今後展開される自家撞着に乞うご期待!(というテンションで書き始めたが、オチのつけ方は未定であるし、思ったより長い旅になりそうである)(なお、ここでは「社会」を特に定義することなく雑に扱っているが、許してほしい。「厳密な意味で前近代に社会(Society)はない」「そもそも日本には世間はあっても社会はない」などと突っ込む無粋な奴はこんなクソ文を読まずに社会学の論文かアベキンのしょうもない本でも読んでくれ)

会社に人文書を押し付けるという嫌がらせ

某年某月某日、私が勤務している某社に社内図書館なるものができた。

どんな本があるのかと、蔵書リストを見てみると……。

 

技術書:まぁ必要よな。

実務書:まぁ必要よな。

自己啓発書:なんか知らんけど大量にあるぞ

人文・社会科学系の本:そんなものはない。あるとしてもしょうもないのが少々。

 

 自己啓発ばっかやんけ!!!私が読みたいと思うようなものは、当然ない。

ならばどうするか?

 私の本棚に眠っている、読んだ本や読んでない本や途中で投げた本や買わなくてもよかったかもと思う本を、いくらか寄贈してやろう。この混沌とした自己啓発書の山を、何の役にも立たない人文・社会科学系の本の光で照らしてやるのだ。

 ……という頭の悪い発想で本を大量に押し付けた。本を押し付けるにあたり、「こんな本寄贈したいんですけどいいっすか? どんな本なのか、独断と偏見でリストもつけたぜ」という内容のビジネスメールを担当者に送りつけた。すると「いいっすね、持ってきて!」と二つ返事。ありがたく受領されたのは嬉しいが、せっかく作ったリスト絶対読んでねぇだろこれ……。というわけで、その時に作ったリストを、ここに供養したい。御線香でも挙げてね。

 

ーー以下(企業秘密は含まれてないよ♡)

 

献本検討中の書籍の書誌情報と簡単な内容紹介(場合によっては私的なコメントや類書リコメンド)。

副題を略さない方が内容が分かりやすいと思った本以外は副題を省略している。

 

『感情を生きる パフォーマティブ社会学へ』

摂食障害や喘息などの各人の経験を、対話を通じて深めるとともに、その経験の社会(学)的意味も探求するという、やや特殊な社会学

 

植村和秀『ナショナリズム入門』講談社現代新書、2014年

各地域のナショナリズムの形成や葛藤を、歴史と理論の両面から具体的に解説する入門書。

言うまでもなく、ナショナリズムとは、同質な(同質とされる)“民族”“国民”への愛着や、その一体性や国家を形成しようとする思想や運動のこと。程度の差はあれ、地域・“民族”・国家の範囲が完全に重なるということはまずなく、ナショナリズムの歴史は葛藤と紛争の歴史である(例えばトルコ系民族は各地に散在し、ある集団は自ら国家を形成し、ある集団は別の国で少数民族として存在している。最大のトルコ系国家「トルコ共和国」は国内の少数民族を強引に同質化しようとしてきた歴史があり、しかもそれは現在進行形である)。

 

國分功一郎『はじめてのスピノザ講談社現代新書、2020年

人間が自分を自由だと思うのは、投げられた石が自分が自由に空を飛んでいると思うのと同じこと――。そんな比喩を述べたことで有名な哲学者スピノザの思想の入門書。

 

川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書、2020年

タイトルの通り。諸大名の財源、収支、貿易、金策、撰銭、経済政策などについて。

 

千葉哲也現代思想入門』講談社現代新書、2022年

死ぬほど難解なことで名高いデリダフーコーなどのフランス現代思想についての入門書。哲学系の『~~入門』という本は「入門詐欺」と呼ばれがち(要は「入門」のくせにムズくて入門できない)だが、本書は分かりやすいと好評である。

 

小笠原弘幸『オスマン帝国英傑列伝』幻冬舎新書、2020年

オスマン帝国初代君主のオスマン1世から、オスマン帝国を滅ぼしトルコ共和国を建国したムスタファ・ケマルに至るまでの、オスマン帝国の人物10人を取り上げた本。オスマン帝国(1299~1922年)は最盛期にはバルカン半島北アフリカ、中東まで版図を広げた多民族国家で、人材登用も活発であり、民族や宗教などに多様な出自を持つ人々に活躍の機会が与えられていた(今風に言えば「ダイバーシティがある」国)。本書で出てくる10人も、それぞれ多様な背景を持つ人々である。

 

那覇潤『歴史なき時代に』朝日新書、2021年

著者は歴史学者だったがうつ病を発症して廃業し、評論家を自称するようになった人。本書は対談やコロナ禍の中で量産した評論を集めたもので、同調圧力や専門家の態度などを口を極めて罵っている。

 

西田知己『血の日本思想史 穢れから生命力の象徴へ』ちくま新書、2021年

「血縁」「血統」というような、同族のつながりを現す「血」という用法は江戸時代以前には存在せず、古代・中世ではもっぱら死の穢れを現すものだった――。そのような「血」の用法や概念の歴史を辿り、ネガティブな意味合いが消えてゆき変遷する過程を描く。

 

玉木俊明『ヨーロッパ 繁栄の19世紀史』ちくま新書、2018年

海運の発達しと電信の普及とともに世界の一体化が大いに進展し富がヨーロッパに集中、ヨーロッパ列強が世界の分割を大いに進展させ、繁栄を極めた19世紀を描く。その繁栄の中、イギリスが海上保険・電信・通信をほぼ独占することにより手数料でボロ儲けし、世界経済の発展がそのままイギリスの利益に奉仕するシステムを築き上げているのが印象的である。

 

玉木俊明『金融化の世界史』ちくま新書、2021年

近代にヨーロッパが植民地支配から得た富で消費社会を形成し、さらに工業化によって耐久消費財を大衆が消費する大衆消費社会を経て、金融の富が爆発的に増加する現代の「金融化」に至るまでを描くグローバル経済史。かつて砂糖植民地としてヨーロッパに作用を供給し消費社会の成立を助けたカリブ海諸国が、現代では金融化に適応?して租税回避地となっているのは面白い。

 

関口高史『牟田口廉也インパール作戦光文社新書、2022年

第二次世界大戦における日本軍のインパール作戦は、多大な犠牲を払った「無謀な作戦」として悪名高く、指揮官の牟田口中将は現在でも「愚将」「無責任」の代表格として罵詈雑言が浴びせられている。本書は従来あまり叙述されなかった牟田口の伝記を丹念に辿り、その任務遂行を重視する生真面目な人物像を明らかにするとともに、その人格が作戦指導においていかにマイナスに働くに至ったかに焦点を当てる。なお、インパール作戦については、日本軍の組織としての要因に焦点を当てたものとして『失敗の本質』(中公文庫)、不適材不適所を生み出した陸軍の人事のあり方に注目したものとして広中一成『牟田口廉也―「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)がある。

 

大木毅『「砂漠の狐ロンメル』角川新書、2019年

WW2でドイツ軍の伝説的名将として名高いロンメルについての実証研究に基づく伝記。

 

ウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国』(小野寺拓也訳)角川新書、2021年

ナチズム研究の第一人者が書いた入門書。第一次世界大戦前(帝政ドイツの時代)から説き起こす。ナチズムの東欧支配を植民地支配の変種として議論することが特色である。訳者はナチズムについての誤情報や数十年前の研究水準のままの情報が一般に流布していることに危機感を持って本書を訳したという。他のナチス関連の良質な入門書としては、石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)、リチャード・ベッセル『ナチスの戦争 1918-1949』(中公新書)、芝健介『ホロコースト』(中公新書)などがある。

 

鈴木健介『未来を生きるスキル』角川新書、2019年

著者は2022年11月29日に襲撃された社会学者・宮台真司の弟子。AI時代の社会をよりよく生きるためにいろいろ言っている本だが、著者が社会学者なだけあって、しっかりした現状整理の上で提言を行っている。

 

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義星海社新書、2019年

そうそう目にしない、現在の「暗黒啓蒙」の思想を扱った本で、本自体も真っ黒。資本主義に抵抗・批判を行うのではなく、「疎外」などの資本主義の負の側面も含めてそれをより先鋭に推進することで突き破る、「悪くなればなるほど、よくなる」という「加速主義」など、最新の変な思想の諸潮流が描かれる。

 

多胡淳『戦争とは何か』中公新書、2020年

国際政治学における戦争の研究は、国際的要因・国内要因など、それぞれの戦争に関連する具体的な歴史を研究し分析するのが一般的だが、本書は歴史上の各戦争をデータ化し、データ分析による統計的な戦争研究を行うという新しい(「科学的」)方法を採用している。「民主主義国家同士は戦争をしない」などの国際政治学における有名なテーゼも、歴史的・理論的な分析ではなく、データセットから統計的に検証されている。

 

村田晃嗣『大統領とハリウッド』中公新書、2019年

アメリカ大統領が登場する映画と、現実の歴史の大統領を往復しながら、アメリカ現代史の一面を描く。映画における大統領の描かれ方(英雄だったり、悪役だったり)に現実のアメリカ大統領への希望や不満が投影される一方、現実の大統領が映画的な自己演出・イメージ戦略を行うこともあり、フィクションと現実の間の相互作用に注目される。

 

鴋澤歩『鉄道のドイツ史』中公新書、2020年

経済史の観点から、ドイツの鉄道の歴史を一望する本。フリードリヒ・リストの国民経済論やドイツ統一問題などの政治的な問題まで、色々な要因を包括して叙述されている。

 

滝川幸司菅原道真中公新書、2019年

天満宮の「学問の神様」として名高い、平安時代初期の政治家・菅原道真の伝記。著者が国文学畑であるだけに、漢詩人としての側面が詳しく描かれている。

 

藤原聖子『宗教と過激思想』中公新書、2021年

洋の東西に存在する、暴力や殺害も厭わない宗教的過激思想を取り上げつつ、各々に通底する共通項を見出していく。

 

空井護『デモクラシーの整理法』岩波新書、2020年

「整理法」と銘打ってあるが、整理しようとした結果余計にこんがらがって難解になっているだけでなく、デモクラシーとリベラリズムを意図的に混交した議論を展開しており、読んでいてぶん投げたくなった本。他の人がどんな感想を持つのかある意味気になる。

 

日本史史料研究会編『信長研究の最前線』朝日文庫、2021年

信長は「革新者」であるとするイメージは世間一般に根強く、定期的に再生産されている。そのような信長像はとっくに学界では見直されているが、学界の研究成果は世間には驚くほど反映されていない。本書は新研究の成果を一般に向けて問うたもの。読みやすい良質な類書としては、すずき孔『マンガで読む 新研究 織田信長』(柴裕之監修。戎光祥出版、2018年)、金子拓『織田信長』(講談社現代新書、2014年)、同『織田信長 不器用すぎた天下人』(河出書房新社、2017年)などがある。

 

猪木正道『独裁の政治思想』角川ソフィア文庫、2019年

「独裁は暴政とは異なり、自己を正当化する政治理論・思想を持つ。にもかかわらず、暴政へと常に変質していく。指導者は一日でも長く権力のポストに止まろうとするからだ。その20世紀の2大典型、スターリンヒトラーの政治思想を理論史的に究明し、独裁体制の特質を明示した金字塔的著作」(裏表紙より)。裏表紙の紹介が端的で贅言を要しない。

 

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社文庫、2015年

一般意志とは、ある国家の全市民が自らの私益に捉われず「公共の利益」だけを考慮して表明した意志のこと。18世紀の思想家ルソーの人民主権論の中心となる概念だが、言ってしまえば一般意志などというものは存在せず、妄想の中だけにある概念に過ぎない。が、「一般意志は現実に存在する! それはインターネットに蓄積されたデータベースだ!」と突拍子もない主張をするのが本書。インターネット論・情報社会論と政治思想の古典を結合させ、新たな民主主義を探るという壮大な試み。なお、最近はグーグルの検索汚染などもあり、著者もこの本を書いた時(初出は2011年)の楽観的な見通しは修正している。

 

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』幻冬舎文庫、2017年

「ググれカス」というネットスラングがあるが、検索する言葉を知っていないとそもそもグーグル検索が出来ない。グーグル先生がなんでも知っているかに見える世界で、人間がよりよく生きるためには、身体の移動・旅・人との「弱いつながり」から、「新しい検索ワード」を探すしかない――。そんなことが書いてある本。最近では現代文の教科書にも掲載されているらしい。

 

東浩紀『ゆるく考える』河出書房新社、2019年

インターネット老人で元哲学者である東浩紀の批評集。連載などを一書にまとめたもので、諸論考は平成の批評家として彼が自己を確立する過程の試行錯誤に当たる。

 

那覇潤『平成史 昨日の世界のすべて』文芸春秋、2021年

もう歴史になってしまった「平成」を、政治・文化・社会・思想を含む広い視野でまとめた本。著者特有の「歴史を喪失した時代」「“父”が死んだ時代」として平成を見るスタンスには賛否は分かれるだろうが、一人の史家の目線で平成を描き切っているのは壮観ではある。(が、政治史パートはやや退屈。退屈しない平成政治史の名著としては大井赤亥『現代日本政治史』ちくま新書、2021年がある)

 

那覇潤『歴史が終わるまえに』亜紀書房、2019年

歴史が不要とされる時代になってしまった、と悲観する著者の、歴史学者政治学者、社会学者などとの対談本。若手同士の対談が多いためか、ニッチな内容もカジュアルに面白く話していたりするところが多く、その点は魅力である。

 

森本あんり『アメリカ・キリスト教史』新教出版社、2006年

タイトルのまま。このような地道な研究の積み重ねが、後の同氏の名著『反知性主義』『不寛容論』(ともに新潮選書)、『異端の時代』(岩波新書)に繋がってくる。

 

小林純『続ヴェーバー講義 政治経済篇』唯学書房、2017年

著名な社会学者・政治学者・経済学者であるマックス・ヴェーバーについて。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などの主著よりも、政治経済に関する細かい各論が取りあげられている、やや専門的な本。そもそもヴェーバーって誰やねん、という方には、伝記としては今野元『マックス・ヴェーバー』(岩波新書、2020年)、思想内容としては『マックス・ウェーバー』(中公新書、2020年)が勧められるが、そもそも社会学の入門書(ウェーバーはほぼ100%出てくる)で触れる方がわかりよいかもしれない。

 

鈴木哲也『学術書を読む』京都大学学術出版会、2020年

専門外の専門書を読む意味やどう読めばいいか、などについて。「本の読み方本」などはこの世に死ぬほどあって、「読み方なんざ人それぞれやろがい」と突っ込みたくなりがちだが、本書は対象を絞っているだけまだ説得的なのかもしれない(知らんけど)。

 

堤林剣『政治思想史入門』慶応義塾大学出版会、2016年

古代ギリシャと近世のマキャヴェリホッブズ、ロック、ルソーが対象(中世については、「第五章 ワープ!」というふざけたタイトルの章がある。簡略な西洋思想史の本では中世は言い訳程度にトマス・アクィナスに触れて「やったこと」にされがちだが、それに比べると潔くて遊び心がある)。「批判的思考を鍛える新しいテキスト」と銘打ってあり、おそらく下手に知識がある人よりも、知識がない人の方が楽しめるしためになるタイプの本であると思われる。(下手に知識のある人にとっては、16世紀フランスの主権論や暴君放伐論=モナルコマキを扱う、同著者のより専門的な『「オピニオン」の政治思想史』(岩波新書)の方が読みやすいし面白いであろう)

 

ーー以上

 

 挙げた本について少し話したい。

東浩紀の著書たち

 ネット上でサービスを展開している部署の人は読んでも損はないんじゃないかと思う。ちょっと古くなってるけど、まぁ脳に刺激を与えてくれ。いんたーねっつの思想的意義を考えながらサービス展開をだな……(適当(お前がやれ))

・牟田口の本

 サラリーマンってこういうのが好きなんでしょ!?(偏見)

・玉木俊明のグロヒスちくま新書シリーズ

 経営陣の皆さま読んで。私のような末端の傭兵はそんなでかいスケールの話を勉強しても役には立たないけど、あんたらは違う。時代的にも空間的にも、それくらいのスケールの知識は持ったうえで経営やってくれ。そんで業績上げて、雇用とおちんぎんを増やして♡本当は寄贈せずに持っていたかった本なんだけど、べ、別にあんたのために寄贈したわけじゃないんだからねっ!

・『第三帝国

下○沢の古本屋で200円で転がってた。コンパクトで素晴らしい入門書。これも持っていたかった本だけど、これは公益に適いそうな本だから寄贈した。

 

まぁどうせ誰も読まんやろうけどな!!!

寄贈した本もこのクソ記事も誰も読まんから、この記事が会社の人にばれて怒られることもないやろ、ガハハ(フラグ)(ばれたところで、公序良俗に反してないし、バイトテロ的なこともやってないし、企業秘密も漏らしてないから怖くない)

 

 

歴史修正主義という言葉の無意味さについて

歴史修正主義なる言葉がある。

 

そのヨーロッパ本場での意味について知りたければ中公新書でも読んでくれ。

 

さて、日本の場合、この言葉は、大東亜戦争を東亜解放戦争として肯定したり、南京虐殺事件などの日本軍の残虐行為の存在を否定したり、近代日本を批判的に見る歴史観を「自虐史観」として否定したりする歴史観の総称として使われている。

 

その言葉を向けられる批判対象者が批判を蒙るべきであるという主張には諾うとしても、それを批判する際に「歴史修正主義」という言葉を使うのはあまり有効とは思えない。

 

歴史修正主義」の側は、自らが歴史に疎いとも思っていなければ、自らが歴史を修正しているとも思っていない。

 妥当性は措くにしても、彼らは歴史に関心のない一般人よりも、近代史の知識はある。大東亜戦争を「東亜解放」として肯定するだけあって、東南アジア独立運動の「志士」たちにも通じていれば、日本における大アジア主義の「志士」や運動に対する知識も豊富な場合が多い。満州事変から日米開戦に至る政治史にもある程度は通じているであろう。

 また、彼らの主張は、だいたい「史料に沿って見れば、南京虐殺事件はなかったのは明らか。あったというのは反日勢力の捏造で、それこそが歴史修正である」といったもので、主観的には「修正」された「歴史」=「自虐史観」と戦っているのである。

 それらを踏まえると、「歴史修正主義」者は歴史に無知だとか、歴史を修正=偽造しているとか批判しても、彼らにはノーダメージなのである。「あちら側」が「歴史修正主義!」と罵られたところで、「お前ら自虐史観こそが真実の歴史を修正する歴史修正主義だバーカ!」と罵り返すのがオチだ。小学生の喧嘩である。

 

歴史修正主義」という言葉を使う目的が、それを批判する側が「あいつらって馬鹿だよね」と団結することであったり、「あいつら」を指す便利な言葉(「ネトウヨ」よりもアカデミックな香りがする)を作ることにあるのであれば、それは有効であろう。しかし、「歴史修正主義」の蔓延を防ぐことにあるのであれば、「歴史修正主義」という言葉を使って対象者を批判することに何のメリットもない。なぜなら、その言葉は「歴史修正主義者」に全く刺さらない(むしろ、「お前らが歴史修正主義だ」と気炎を上げさせる)からである。

 

歴史修正主義」と戦うとすれば、その説得力を棄損させ、「歴史修正主義」的な言説に妥当性を感じている人たちを引き離すことが先決である。「ネトウヨ本」を量産するコアなイデオローグを「改宗」させることは困難である(その必要はないと言ってもよい)にしても、その説明に魅力を感じている人たちを引き離すことに注力することは可能である。

 「歴史修正主義」に「騙される人」は「馬鹿」だ、という説明はよく聞く。が、その前提に立つ限り、「馬鹿につける薬はない」と説得を諦めるより他はない。思うに、そういった人たちは、「(知的)好奇心」があるかないかで言えば、「ある」方であろう。そうでなければ、わざわざ「ネトウヨ本」を読んだり「ネトウヨ動画」を見たりして「歴史を勉強」したりはしないし、それを「面白い」と思うこともない。また、若くて知的好奇心旺盛なキッズが歴史の勉強をしようとして手に取った「面白い歴史の本」がたまたま「ネトウヨ本」だったりすることも、往々にしてあるであろう(よほど早熟なガキか文化資本ある家のボンボンでない限り、たいていの中高生は多少成績がよくても、大学の先生が想定するほど「本の良し悪しがわかる」ことはないと思った方がよい)。

 そういった好奇心のある人たちを「歴史修正主義」から引き離すには、彼らを「歴史修正主義者」と呼んで馬鹿にするよりも、個別の論点から、その歴史観の説得力を喪失させる方が確実である。「歴史修正主義」という言葉を使って彼らを全否定するよりも、「大東亜戦争肯定論」「南京虐殺否定論」「日本軍の残虐行為否定論」などそれぞれにターゲットを絞って、具体的に、粘り強くやっていくしかない。

 

今回は、「歴史修正主義」という言葉を使って相手を批判することが、「歴史修正主義」側の人々を説得する上では無意味であることだけを示して終わりにしたい。

 

具体的な戦略?は、気が向いたら書くであろう。

 

 

 

 

 

史料は飼料にならない

 

前回(大学で学ぶ歴史(笑) - 豚暦 (hatenablog.com))の続き。

 

2年生になって、ようやく史料を読む授業が始まる。たいていの教員は外部から来た先生だった。取った授業は以下のようなものだったと記憶してる。

・中世文書の崩し字を翻刻する授業。六国史のどれかを読む授業。これらは史料を読み、かつ先生が文書様式や内容を説明するタイプのもの。

鎌倉時代に成立した歴史書『○練抄』を読む授業、近世文書を読む授業、近代の史料を読む授業など。これらは割り当てられた史料について学生が発表するもの。

 ようやく、専門っぽくなってきた。これらの授業は普通に勉強になった(母校の悪口を言うのが趣味の私でも、評価するものは評価するし、感謝するときはするんである)。

今思うと、これが大学でやった「歴史」のピークだったと思う。おそらく、このあたりの「スタートライン」を越えて、自ら史料の海を漁るようになってからが、学問としての歴史の始まりになるのだろう。

 

しかし、それ以降、私は完全にやる気をなくしてしまう。

 

「史料を読む」ことには挫折しなかった(崩し字は苦手なままだが)

「高校までの歴史」と「大学で学ぶ歴史」の間の断絶、あるいは「物語としての歴史」と「科学としての歴史」の違いに打ちのめされるようなこともなかった。

3年生になったら、必修の語学の授業からも解放される。あとは、鬼滅の付焼刃である史料を読む力を駆使して、好きなことを好きなように研究して卒論を書けばよいのである。

 

 3年生になった私は、消去法で○○史のゼミに入った。そして、2、3週間と経たないうちにやる気をなくしてしまう。このゼミは学生が輪番で卒論につながるテーマの発表をするものだ。たいていはクソな学生の発表を聞き、それ以降のコメントなどでの議論はほぼなく、教員からの突っ込みもあまりない。無益である。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い精神で、入学後から徐々に「日本史」への情が薄まりつつあったやる気の喪失は決定的となる。

 3年で必修の専門関係の授業には、他大学の教員が受け持つ、サブのゼミのようなものもあった。こちらは史料を学生に割り当てて発表させる授業である。こちらは先生が割と容赦なく突っ込みを入れるので、おそらくゼミ本体よりも有益だった。

 

 

 私の史学徒としての生命は、3年生になるとともにすぐに朽ち果てたといってもよい。「ゼミがクソでやる気をなくした」と言えばそれまでで、その経緯は前の記事母校への悪口と総括 - 豚暦 (hatenablog.com)で書いたが、今回はそれ以上の要因について自己批判?をしたい。

 まず、これまで書いてきたように、私が有益と評価している授業は、たいてい「課題として与えられた」史料を読むものであった。内容を理解し、その史料に関連する研究を調べ、上手いこと纏めれば評価される。実際の学力はカスでも、この動物園の中では相対的に優秀なことになってしまう私はそうやって乗り切ることができてしまった。なるほど、「史料」は読めるようになったし、「先行研究」は多少引っ張ってこれるようにはなったであろう。しかし、それは史学徒として必要な2つの能力を欠いたまま生きていたことを意味している。

・まず、適当にやっても評価されるため、課題の史料を読みこむことに専念すればよく、他の史料を多く漁ることはしないでも乗り切れてしまう。史料に関する知識や史料の探し方が身についていない。

・さらに、これまた適当にやっても評価されるため、「先行研究」は、図書館の本棚を適当に眺めてそれっぽいのを片っ端から開くという野蛮極まる方法で調べるだけで事足りてしまった。雑誌論文など先行研究をちゃんと調査できる能力、必要とあらばよそから取り寄せたりする能力・方法は全く身についていない。

 史料を探す能力と先行研究を探す能力。この2つの能力が身についていないだけで、史学徒としては落第である(額面上の成績はそこそこ優秀だったが)。今すぐ自○すべきレベルである。

 

 そして、課題の史料からスタートする習慣が身についているため、「卒論では自分で好きなことやっていいよ♡」と言われた時にどうするかが問題となる。前の記事で書いた通り、既にやる気を失っていたから、「何かを研究したい」という情熱は失っている。それでも何かを「研究」しないと卒業できない。そして「研究」とは「実証」であると心得ていた私は、「実証したいことがない史学徒」という意味不明な生物になっていた。そして、課題の史料から何やかんやして発表することになれていた私は、何か史料を見つければそこから何か始められる(というか、やる気がない以上、そこから始めるしかない)のでは?と思うようになっていた。やる気の喪失は、先行研究なり既存の文献への「文句」などから「課題」を見つける意欲を完全に奪い去り、いきなり史料に飛び込ませた。「実証」したいことがないまま、おかしくなりそうなほど情報過多の史料集(中学生の時に好きだった分野に関連するもの)の海に飛び込むことになる。そして無理やりテーマを作った(ある文書様式における文言の違いを数量とともに比較して何が言えるか)ものの、実際に調べた結果が「何も言えない」に終わり、完全に行き詰まることになる。そして、卒論提出3ヶ月前にテーマを完全に変えて、「実証」ではなく「論理」の話に持ち込んで無理やり終わらせるという蛮行で事なきを得る。

 

 史料が読めるようになっても、そして仮に「大学で学ぶ歴史」は何かを心得て「実証」マインドを得ても、「何かを研究したい」という情熱がなければどうしようもない。世間一般の「勘違いして」史学科に入る人たちは、自分が「情熱」を注いだ人物・物語に対する欲望とは乖離した「実証」「史料」「科学」の壁にぶつかって粉砕するらしい。私は「史料」を読んで「実証」せねばならぬことは知りつつも、環境によってやる気をなくしたことも相俟って「情熱」らしきものが完全にお留守のまま、「実証」せねばならぬという強迫観念に捉われて迷走した。

 

迷走したことについてだらだらと書いていたら文章と論旨が迷走してしまったので、この記事はおしまいにします。

 

 

 

 

大学で学ぶ歴史(笑)

こんにちは!

最終学歴雲古大学付属幼稚園にほんちうせいし組の俺様だよ!

 

「大学で学ぶ歴史は高校までの歴史とは違う!」ってみんな言うよね。食傷気味だよね。

当たり前のことを随分一生懸命に言うんだね君は。と思っちゃうけど、必ずしもその当たり前を弁えているとは言い難い老若男女はいなくもないから仕方ないか。それに、どんな取るに足らない木っ端学者(学徒)でもどんなに冴えない人間でも、それを言っている限り、“歴史好き”が高じて史○科に行こうかと“勘違い”する(または実際に行く)中高生や、知識消費・物語消費をこととする“歴史ファン”を「歴史好きじゃなくて逸話好きだろw」と馬鹿にして優越感に浸れるだろうし。

 

性格のいいはずの私が嫌味いっちゃった。ごめんね。

 

ところで、そんなに偉い「大学の歴史」で、何をやったっけ?

ということを思い出しながら、だらだら書いていきたい。なお、以下はあくまでも「ゴミカスキショキショ大学」(以下、「弊社」)での話であり、他の大学がどの程度のことをやってるのかは知らない。これを見て「史○科なんてウンコじゃんw」などと、○学科全般をバカにすることがないように。俺様ちゃんとの御約束だよ!

 

 

私も、“勘違い”して史学科に行ったのか、弊社は思っていたのとは違っていた。

何も「歴史の楽しい話を聞けると思ったら~~意味不明な古文書を読まされました~チクショー!」という次元での話ではない。さすがに無知蒙昧無学分盲な私も、大学で学ぶ歴史は史料を読んで広い視野に立ちつつなんやかんや研究するものらしいことは知っている。

 

とにかく、1年生から「は?」の連続だった。

 まずは、選択必修の科目での日本史入門という授業。最初の方に律令官制のプリントや旧国名のプリントが配られる。まあ、初学者向けの説明と、分からなくなった時の参照用なのだろう。と思っていたら、「旧国名の空欄を埋めてみましょう!」ときた。何が大学で学ぶ歴史じゃ高校の日本史やんけボケ!と思った。少なくとも高校で日本史取ってた人間なら旧国名はある程度知っているし、だいたい忘れている人やそもそも知らない人は、分からなくなったらその都度確認すればいいだけの話である。書きとりチェックする意味が分からない(しかも書いたものを回収するわけでもない)。腹が立ってこれ見よがしに教室から出て行ってしまった。一応、真面目な性格(誰が真面目系クズや)なので、それ以降もちゃんと出席はしたが、律令官制などの教科書的説明が続き、最後の方でようやく教員の専門と思しき内容が出てきたように思う。「教員の専門と思しき内容」が「大学で学ぶ歴史」なんだろうが、特に深い印象もなければ感銘もなかった(1ミリも面白くなかったわけではなかったように記憶してはいるが)ので、そんなに大したもんじゃなかったのだろう。

 同じくクソだったのが、社会科教職志望者は必修の日本史概説という授業である。最初に配られたレジュメには、「大学で学ぶ歴史とは~」「オタクとして博識になるだけでは、大学で学ぶ歴史のスタートラインにも立っていない!」と例の如く大上段の勇ましいセリフが並んでいる。さて、どんな「大学で学ぶ」に相応しい授業が来るのか、と身構えていたら、出てきたのは「オタク」知識の羅列だった。授業のテーマは「辺境から見た日本史」。テーマからすると「大学」感が出ている(教職志望者がまず最低限知っていないといけないのは教科書レベルの「中央から見た日本史」だろ、というのはさておき)のかもしれんが、授業内容は何のことはない。「辺境」の歴史の歴史重箱すみつつきである。鎌倉時代の東北の安東某が~みたいな、マイナー「知識」のオンパレード。実は当時の私が読み取ることができなかっただけで、「辺境と中央のダイナミズム」みたいな壮大な「歴史学的」テーマがあったのかもしれないが、どうも知識の羅列にしか見えなかった。実際、試験でも「オタクの知識」を問うような問題ばっかりだったように思う。結局、「オタクの知識」の範囲が高校とは違うだけ。それを通して、「辺境から見た歴史は中央から見たのとは違う」という当たり前のことを伝えたかったのかもしれないが、だから何やねんという話である。こんなクソ授業を、教職志望者(こいつに教えられるくらいなら死んだほうがましレベルの奴もいたと思う)の大軍がひしめく教室で聞かされるストレスを想像してほしい。

 

弊社は大学入試の時点で専攻まで決まっている。まともな大学のように、「文学部」に入ってから、○○史に行くか○○文学に行くか哲学に行くか……と選択肢が分岐するタイプではない。では、最初から専攻が決まっている利点を生かして、1年から専門的な教育をやるのかなと思ったら、そんなことはない。春学期に専門に関係する科目といえば、上記2つのクソ授業だけだった。何のために最初から専攻を決めているのか理解に苦しむ。やる気を出せと言う方が無理である。

 

このあと2年生編以降も書いていこうと思ったが、疲れたので一旦このへんで止めておく。

続き

史料は飼料にならない - 豚暦 (hatenablog.com)

インターネット・エンゲルス、ただいま参上!

世代的に私は“古き良き”平成のインターネット民なのだが、あまりメジャーなものを摂取していないなーと思う。ここでは、私の体験した平成のインターネット遍歴について思い出したことを書いていきたい。

 

おそらく、インターネットを使って自分で検索したりするようになったのは、小学4年生の頃からである。確かフラッシュゲームとかを見ていた気がする。一番好きだったゲームは無個性戦隊○○レンジャーで、今でもそこそこ上手いと思う。

 

小学5年生の時はスーパー正男をよくやっていた。マリオのパロディで、敵キャラがポケモンもどきのあのゲームである。「正男メーカー」という、視覚的にステージを作れるサイトがあり、そこで自作のステージを作って投降したりしていた。

より文化的なネットライフとしては、掲示板荒らしが挙げられる。ポケモンピンボール掲示板にしょうもない投降をしては、他の暇人たちに「精神年齢低いぞ……」「いや、この人は実年齢も低い」と突っ込まれたりしていた。慧眼なるかな、暇人。

 

ここまでは健全なネット民だが、小6で不健全になってくる。歴史の調べ物をするという、健康的過ぎるネットの使い方をしまくるようになったからである。知りたい人物の名前を調べては理解できる範囲で読む(好物はウィキペディアの「人物・逸話」の項目)という、極めて一般的なオタクの餓鬼のすることをやっていた。

 

中学生になってからは、ニ○ニコ動画で替え歌○史シリーズを見たり、ヤフー知恵袋で歴史をメインにバトったり、ヤフーブログでしょうもない歴史記事を書いたりして遊んでいた。あとは無法時代のようつべで(おそらく著作権法無視で投稿された)クレヨ○しんちゃんなどを見ていた。

 

ざっとこんなもんである。健全であろう? 2ちゃんの文化にはほとんど触れていないし、その他の色々な「平成のネット」らしいコンテンツや文化にも触れていないように思う。でも何やかんやでネットは好きだったし、中学生の時に書かされた自己紹介の紙の「趣味」には「ネット」と書いていた。

 

 今回の記事は死ぬほど面白くなかったと思うので、最後にみんなが大好きなスケベな話でもしよう。

初めてあはっ♡なサイトを見たのは、小4の時である。まだガキだったし、いやらしい関心が強かったわけではなく、「エ口サイトって本当にあるのかな?」という純粋な好奇心で「工ッチ」で検索したのだ。検索するときに「“エ口”って正しい言葉じゃないよな?正しく丁寧な言葉遣いって“工ッチ”だよな?」という、意味不明な上に客観的な知識として間違っている(周知の通り、Hは「変態(Hentai)性欲」の略、エ口はエロティシズム系統の言葉の略であり、系譜が違う言葉である。エしかあってない)判断で検索ワードを選んだことは鮮明に覚えている。出てきたサイトには上半身(ピー)の人が上下に揺れてぷるんぷるんしているGIFがあった。それを見て何かに目覚めた訳ではないが、なにか猛烈にいけいないことをして、いけないものを見ているような気がして、えもいわれぬ“あはれ”を感じたものであ……書いていてオヤジくさくていやになってきた。私のような清楚な若者が書く文章ではない。

 

†昇天†